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韓国側発題文

アジアで青年として生きるということ−共生の新千年、平和と人権を考える−

金ヒョンジュ(KYC代表)

新千年の扉が開いた。韓国と日本の青年にとって新しい千年とは何なのか。今、世界の青年たちは「誰のための世界化で、誰のための新千年なのか」という問いの答えを探すのに余念がない。少なからぬ人々が「彼らのための世界化と彼らだけのニューミレニアム」に対し批判している。

しかし、今韓国は外換危機以後、新たな「成功神話」を作るためにだけ熱中している。青年たちも御他聞に漏れず新自由主義と解放に身を任せて、ベンチャーブームとインターネットの熱風に昼夜を問わず身をさらしている。今やアジアの青年たちにとって、生の目的はただ「それら」のなかに編入されることになってしまった。あれこれ見て回っても、「人間のための新千年」の総体的な企画は目につかない。

新しい世紀が幕を開ける2000年に、韓国・在日・日本の青年が顔を合わせて苦悩し、討論しなければならない内容の中の一つが、まさに「新たな千年をどのような世紀にしていくのか」ということと、「われわれが願うそのような世紀にするためにわれわれ青年がしなければならないことは何なのか」という質問に答えることだ。

つまり、新千年は戦争と葛藤、暴圧の世紀ではなく、自由・平和・平等の気運があふれる世紀にならなければならないということだ。国家安保の時代から個人安保の時代への進展は、平和と人権の重要性をより強化させるだろう。21世紀の特徴は世界化がすでに完了した世紀という点だ。従って21世紀にわれわれ青年が考えなければならない点は、一国的次元ではなく全地球的次元と世界的見地からの平和と共存の文化を育み、全人類の人権を保障し、擁護することであると考える。

このような時代的課題を解決するために、まず西欧人のパラダイムの転換が必要になる。サイード教授がその著書「オリエンタリズム」ではっきりと指摘しているように、西欧は西欧人の目と固定観念で東洋を「東洋化」したため、その転換が必要なのだ。西欧人が作ってきた非西欧人たちの総称である「アジア」という言葉は、すなわち「野蛮人」を意味するものだ。だからといって日本や韓国人がそのことに対して決して自由に批判できるわけではない。 過去のパラダイムから見た時、「われわれ」と「彼ら」はまさに韓国人の立場からすれば、韓国人が「われわれ」で「日本人」は「彼ら」だ。そして日本人の立場からは全くその逆が言える。民族主義は近代以後今日にいたるまで両国民のパラダイムだった。

愛国と愛族そして、愛郷はこの上なく正常で、自然な感情だ。しかし、民族主義に固まるなら排他性が含まれるようになる。韓国人は今でも当然、日本チームにだけは勝たなければならないと固く信じている。このような国民の信念は政治圏からたやすく利用される。今まで韓国と日本の政権と国民は「閉じた民族主義」の信奉者だった。 韓国は旧大韓帝国末期に英国中心の世界秩序「パクスブリタニカ」に対する認識が存在していなかった中で、鎖国政策を固守し、究極的には国を日本に引き渡すという歴史を経験し、その一方で日本は今も帝国主義の復活を夢見ているのかも知れない。

また、両国は他の世界の人々が非常識とみなしているものを常識であると固執して、それを自負心にしてきた。韓国人は日本国内の韓国人に対する差別問題に腹を立て熱くなるが、自国内の外国人労働者や脱北者に送る視線は相変わらず冷たいままだ。東アジアに進出したかなりの韓国企業は、多国籍企業が韓国の数多くの労働者を搾取した方式で彼らを搾取している。また、かなりの数の韓国人が、外国旅行を「セックス観光」と「補身観光」を目的にしている。ところで「妓生観光」の元祖は日本だ。

それだけでなく、「援助交際」と「入試地獄」、または、昼夜を問わない英語の勉強に関わらず英語がしっかりとできないところまで韓国と日本の姿は西欧的な観点から見るとき、この上なく非正常な姿で似ている。

明らかなことは、韓国であれ日本であれ新千年を新たな跳躍と中興の時代にしようとするなら、自身と周辺の世界を見る方法、すなわち自らの基本的なパラダイム自体を大きく変えなければならないという点だ。そして、両国の国民はすべて省察な近代化の完成と市民社会の発展のために真に努力しなければならないだろう。

韓国の国民はIMF体制という実に寒い冬を経た。日本もまた過去のような経済成長率を記録することができないようだ。最近になって、韓国と日本の国民はこの間積み重ねた自国の経済成長モデルに対する懐疑を抱き始めたようだ。戦後の日本の成功モデルに対する過信が、今は日本の活力は殺すという結果になっている。韓国の場合も同様だ。いわゆる「漢江の奇跡」やセマウル運動のような韓国型近代化モデルが今も有効であると信じる韓国人はおそらくいない。 このようにわれわれには、旧態から抜け出すことのできる新たなパラダイムと発展モデルが切実に要求される。新たな共生の文化が必要ということだ。「共生」とは、平和と寛容と共存の文化が存在する場合にだけ可能である。このような平和の文化は自然に形成されない。市民社会の絶え間のない努力が必要になるものだ。これは非平和的、帝国主義的、ショービニズム的、反人権的、反環境親和的行動や発言に対する市民社会の抵抗を必要とする。

もちろん、われわれは韓日間のこれまでの課題の合理的解決の主体にならなければならず、朝鮮半島と日本、ひいては東北アジアの平和体制の構築のために献身的な努力を傾注しなければならない。ひいてはわれわれはアジアの青年として、そして、世界市民として時代が与える新たな役割をこれ以上疎んだり、無視してはならないだろう。国家であれ、企業であれ平和と人権を傷つける行為に対し、徹底的に対抗する国際青年連帯を形成していかなければならないだろう。

より広い情報網を構築し、アジア地域の経済における与件や環境問題、反人権の実態などを共に調査し、解決方案をアジアのすべての青年及び社会勢力と討論し、共有する席を作っていかなければならないだろう。それだけが新たな千年を持てるものと既得権者である「彼ら」だけのものではなく、社会で疎外を受けている少数者と共にする「われわれ」の時代へとすることができる道であると信じているためだ。しかし、われわれはこのような事柄を韓国と日本の青年との間の真摯な討論と合意過程を経て漸次的に拡大していかなければならないだろう。まず、東アジア平和のための韓国と日本の国家と市民社会の役割を正確に認識する席を作ることからしなければならない。そして、東アジアと全世界を対象として認識し、そこと対話していく契機を作っていく必要がある。これが時代の要求であり、このような時代的要求に応じる時のみ、われわれの当面の課題は解決されうることを固く信じる。

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