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近藤孝弘さんの講演内容

2001年6月16日、東京・茗台区民プラザで開催した「YF2001関東プレ企画:パネルディスカッション「日韓の歴史教科書対話の可能性〜ヨーロッパにおける取組みを踏まえて」で、近藤孝弘さんにご講演していただきました。そのときの講演録を掲載します。

講師プロフィール

近藤 孝弘(こんどう たかひろ)氏

専攻は比較教育学、カリキュラム論。現在、名古屋大学教育学部助教授。著書に『ドイツ現代史と国際教科書改善』(名古屋大学出版会)、『国際歴史教科書対話〜ヨーロッパにおける「過去」の再編』(中公新書)。

講演内容

ヨーロッパにおける国際歴史教科書対話が示唆すること

1) はじめに〜ヨーロッパの国際歴史教科書対話の研究をはじめたきっかけ
2) ドイツ・ポーランド対話の背景
3) ドイツ・ポーランド対話の障害となってきたもの
4) 教科書対話のみちのり
5) ドイツ・ポーランド対話のインパクト
6) 東アジアへの示唆



1)はじめに〜ヨーロッパの国際歴史教科書対話の研究をはじめたきっかけ

近藤です。今日はまずドイツとポーランドの歴史家による共同作業、いわゆるドイツとポーランドの教科書対話の話をさせていただきます。この対話は、かつての加害国であるドイツと被害国であるポーランド、この両国の歴史家が1972年以来現在に至るまで両国の歴史教育、とくに歴史教科書をより平和的なものに、より相互理解に役立つものにしようと考えて協議を続けている、そういう性格の対話です。こうしたヨーロッパの事例に目を向けることによって、東アジアにおける歴史教育のあり方、とくに私たちの歴史教育を考える際の助けになればと思います。

みなさんの中には、私が中公新書から出した「国際歴史教科書対話」という本をもう読まれた方もいらっしゃると思います。その本に書いたことが今日の話の柱になります。中身に入る前に、この国際歴史教科書対話というものに私が取り組むことになったきっかけについて、手短にお話します。私が大学に入ったのが1982年。つまり大学1年生のときに進出か侵略かで国際的な事件となった、いわゆる第一回教科書問題を経験しました。高校生で受験勉強をしている頃、正直、私にとっても歴史というのは単なる受験のための一教科以上でも以下でもなかったわけですが、大学に入って、「これまで勉強してきたのは一体何だったのだろう」という疑問がわいてきました。多くの方が同じような経験をしていると思うのですが、そういう疑問の気持ちが膨らんでいるときに1982年の事件が起きて、その結果、現在に至るまで約20年にわたってこの問題に取り組むことになってしまいました。今私が教育学部にいるということから教育学的な把握となってしまい恐縮ですが、この教科書問題が起きたときに、「学校の中で学習されることを期待されているような、いわゆる正当な知識というのは決して普遍的なものではない」、「こういう知識はかなりの程度、政治的に決定されているものなのだ」ということに当時の私は薄々気が付いたわけです。

また、全くの偶然ですが、大学2年生のとき、今は専修大学におられる西川正雄先生というドイツ現代史の先生のゼミに参加していました。その時西川先生は、今もそうですが、高校世界史の教科書の執筆者として教科書検定を批判されていました。西川先生は、ドイツ現代史がご専門で、まさにドイツとポーランドの教科書対話について研究されていて、この分野においては最初に注目された方だと言ってよいでしょう。偶然、私が勉強を進めていく上での環境が整っていたのです。

ただ他に研究の可能性がなかったかといえば、そうではないわけで、私がドイツとポーランドの教科書対話に関心を持ったのは、たとえば日韓、日中の間にある歴史認識のギャップというのは地道な歴史研究を積み重ねていくだけでは埋められないのではないかと漠然と感じていたからではないかと思います。もちろん歴史家の方が日々行なっているように無数の小さな事実を新たに調べて積み上げていく、その結果として一つの説得力のある歴史像を形成する、こういう作業はとても大切です。けれどもこの作業は莫大な時間がかかると同時に、やはり現在私たちが直面している問題については限界があるだろうと考えたわけです。とりあえず問題なのは、究極の真実、歴史学的な真実を明らかにするというよりも、すでに知られているたくさんの事実の中からどういう事実を選び出すのか、要するにどれを重要だと考えるのか、そして重要だと考えた事実をどういう論理で結び付けていくのか。こうしたいわば解釈または記述の問題だろうと考えたわけです。

ちなみに解釈と記述というのは、教科書を書いているプロの歴史家だけが経験する問題ではありません。歴史を学んでいる人間、つまり学校の生徒あるいは私たち一人一人の市民も当然それぞれの形で、歴史を解釈し、また頭の中で実は記述しているのだと考えることができます。多くの場合、私たちが行なっている歴史を学ぶという作業は、むしろ断片的なものに過ぎないわけですが、それにしても歴史を学ぶということは、ある意味で頭のなかで歴史を書くことだと考えて良いと思います。こう考えると、たとえば日本による韓国・朝鮮支配の実態についてより詳細な事実を調べていく、あるいは新たに今まで知られていなかったような事実を発見していこうと努力をすること、もちろんこれも重要ですが、とりあえず今切実な課題は、すでに明らかな事実というものを、どういう視点あるいは問題意識に基づいて組み直していくのか、ということなのではないか。そういう点で、ドイツとポーランドの歴史家の対話、とくに対話というあり方が大いに参考になるのではないか、と思ったのです。

誤解のないように何回でも繰り返してお話しますが、私は専門の歴史家の方がされているような地道な研究、たとえば、中国の南京で一体何人の犠牲者がいたのかを明らかにするといった作業は絶対必要だと思います。最後にものをいうのは、やはり事実です。しかし、私たちが暮らしている社会の中では、そういう地道に歴史的事実を調べていく調査が必要不可欠であると考えている人々は、残念ながらそれほど多くはありません。こうした私たちの社会的な環境そのものが既に問題なのであって、その意味でも、私たちの社会にある歴史に対する意識、あるいは歴史というものに対してどういう行動をとっているのかを問題にする必要があると私は考えているわけです。このように私は基本的に歴史的事実よりも、歴史に対する意識の方に関心があって、そのことが私を専門的な学問としての歴史学ではなくて教育学、とくに歴史教育学といわれる分野、あるいは世界各国の歴史教育を比較する、いわゆる比較教育学に向かわせたのだろうと自己分析をしています。



2)ドイツ・ポーランド対話の背景

私個人の話はここまでにして、ドイツとポーランドに注目していこうと思います。ポイントとなる部分、とくに日本と韓国・朝鮮との関係、あるいは中国との関係を念頭において重要であろうと思われる事柄、そういうことを中心にして多少学問的な話を交えてお話したいと思います。

まずドイツとポーランドの対話について見る場合に、それが実施に至った背景、あるいはその対話を可能にした社会的な基盤に目を向ける必要があります。日本と韓国の間でこれまでなかなか進まずにきたものが、どうしてドイツとポーランドの間では実現したのか、その理由について考えてみようと思います。私が考えますに、この両国間の対話の背景として少なくとも次の三つの点が重要です。

第一に、国際教科書対話、つまり各国の歴史家が対話をするという活動は、ヨーロッパの場合、戦前に一定の実績があったということです。少なくともこれまでの歴史教育の歴史を考えると、歴史教育というのは多くの国で、いわゆる盲目的な愛国心あるいはナショナリズムといったものを育んでいる。こういう批判は古くから、とくに第一次大戦の前からありました。もし平和を望むのであれば、やはり教科書対話を行った方が良いというのは、特別のことではなく当たり前のこととして、少なくとも戦後のドイツでは受け止められていました。

戦前にはいろいろ活動があって、とくに知識人を中心とした活動、あるいは教員団体による活動といったものがありましたが、これはその後ナチスによって潰されてしまい、またナチスによる戦争というものを食い止めることができませんでした。そういうことを考えると限界があったのは確かなのですが、ただ戦前の活動が無意味だったというのではなくて、実際問題として、時間が余りにも足りなかった。だから、この活動は力を持つことができなかった。このように戦後のドイツの歴史家たちは考えたのです。 そして、このような考え方というのは必ずしも加害国であるドイツの歴史家だけが持ったわけではなくて、世界的な規模で見ると、国連の一部局であるユネスコがそういうことを考えましたし、またとくにヨーロッパに限っていえばストラスブールにある欧州評議会という、EUよりももっと古くからヨーロッパに存在してきた統合機関が国際歴史教科書対話を後押しすることになりました。もちろん、だからと言ってヨーロッパではどこでも等しく国際歴史教科書対話が重視されて進められたかというと、必ずしもそうではありません。各国の中でもこういう問題に一番関心があるのは当然歴史家あるいは歴史の教師なのですが、そういう人を別にすると、いわゆる一般の人々の間でどれだけ広く、深く浸透していったのかというとかなり怪しいところがあります。ただ、西ドイツの歴史関係者は、こうした活動に非常に熱心だったと一般論としていえるだろうと思います。ポーランドとの対話を開始する前に、西ドイツの歴史家は西側諸国、とくにフランスやベネルクス諸国を中心とした歴史家を主なパ−トナーとして、数多くの教科書を巡る会議の実績を積み重ねてきたわけです。

そして東の隣人であるポーランドとの対話は、その重要性というのは本当は50年代から分かっていたわけですが、それにもかかわらず後回しにされてきたと言っていいと思います。このことは、実は第二の要因と関係してくるわけですが、西ドイツの歴史家が教科書対話の中で重要な役割を果たしたというのは、簡単に言ってしまうと、やはり西ドイツにおける広い意味での知識人がナチズムでの経験をどのように受け止めて、それに対してどう行動していったのか、というのが大きいことは間違いないと思います。また、いわゆる自己批判的な知識人の姿勢というものに共鳴、共感する市民というのは、必ずしも多数派ではなかったのですが、でも、やはり政治意識の高い市民が一定以上は存在していた。これが一体何%なのかというのは明確に言うのは難しいですが、しかし他の国々と比べて、あるいは日本と比べても、ドイツにおける政治意識の高さというのは注目していいだろうと考えることができます。 こういう文脈のなかで注目されるのは、1985年5月8日ドイツの終戦の日に当時のヴァイツゼッカー大統領が行った、いわゆる「荒れ野の40年」演説というものです。これをご存知の方も多いと思いますが、大統領が連邦議会で、言ってみれば国民に向けて、過去を直視するよう訴えたわけです。そういう前向きな感覚、つまり自分たちの戦争責任を認める、その戦争責任を引き受けるという姿勢の中に一種の自信のようなものを表現している。そういう感覚というのが、いわゆる戦後ドイツの精神と言われるものです。 つまり、ナチスが行なった数々の非人道的な行為が厳然としてある以上、戦後のドイツというのは、自分たちの過去や歴史の中に、現在あるいは未来というものを築いていくための指針になるようなポジティブな価値観というものを見出すことができないわけです。歴史の中に良いものを見出そうという姿勢そのものが許されない状況にドイツの場合は置かれてしまっている。ドイツの少なくない知識人は、そういうふうに考えたわけです。こうした現実のなかで取り得る道はといえば、忌まわしい歴史の真実を引き受けるという勇気です。その勇気によってしか新しい国家建設はできないと、少なくない知識人あるいは政治家が考えていたと言えます。 このような言い方をすると、あまりにもドイツを美化しているのではないかと批判を受けるかもしれません。それは百も承知のことであって、確かに実際のドイツを見ると、そういう崇高な精神によってばかり動いているのではありません。最近も、とくに去年の夏あたりから、再び右翼急進主義者といわれる人たちが非常に増えています。1990年にドイツが統一してから去年の秋までの時点で、少なくとも93人の人々が−主に外国人ですが−、右翼急進主義者によって殺されたという現実もあります。また、ナチス時代に歌われていたような歌を歌っている右翼急進主義者が、ドイツ連邦軍の中にも浸透しつつある。これも、もう一つのドイツの現実です。 そういう悲劇的な状況についてデータを挙げていけば、いくらでも挙げられるわけで、たとえばドイツの青少年の5人に1人はアウシュビッツについてほとんど何も知らない。3人に1人はホロコーストという言葉さえ知らない。そういう調査結果も出ています。こうした結果には、とくに旧東ドイツ地域の若者の歴史認識という問題があることは確かです。そういうことを勉強をしてこなかった彼らが、数字上足を引っ張っていることは間違いありませんが、その分を差し引いたとしても、大きく見て、731部隊について「何それ? 聞いたこともない」という日本人が少なくないという状況と、ドイツの状況とで、それほど大差はないかもしれない。このように議論することも可能です。

にもかかわらず、教科書検定の現実を見れば明らかなように、たとえば日本政府は戦後ほぼ一貫して、戦前戦中による日本人の侵略行為、その過程で行われた非人道的な行為についてはなるべく目を向けないように、とくに批判的な目を向けないように検定を行なってきました。それに対してドイツ政府の方は、部分的ではあっても、自分の国の歴史に対する批判的な検討を積極的に支援してきた。こういう違いがあるのは事実です。ではドイツの取り組みが果たしてどの程度の効果があったのかというと、今お話したように非常に難しい問題があります。それでも、私は、やはり西ドイツにおける政府の取り組みというのは意外に大きな効果があったのではないかと推測しています。たとえば先程お話したように、旧西ドイツ地域と旧東ドイツ地域では現在人々の歴史認識が大きく違っています。このことを考えると、やはり西ドイツ地域における過去への取り組みというのは大きな意味を持っていたと考えられるのではないか。いわゆる社会的な正統性、つまり歴史認識についてどういう主張がその社会においてオーソドックスでオフィシャルなものとして認められているのか、この点では、やはり戦後西ドイツにおける歴史認識というのは、日本よりもはるかに模範的なものであったというのは間違いないと言って良いと思います。

やや遠まわしな言い方になりましたが、第2点目として要約すると、戦後ドイツ、とくに西ドイツにおける反ナチ・コンセンサスというのがポーランドとの対話の不可欠の基礎を形成したということになると思います。

そして、最後に第3点目として、やはりポーランドとの対話の直接の契機となった当時の東方外交について触れなければなりません。確かに西ドイツにおいては、相対的に見てかなり強い反ナチ・コンセンサスが敗戦直後からあって、それが今日のEUに代表される欧州統合への積極的な参加という結果をもたらして来ました。EUの元をたどっていくと、石炭と鉄鋼という当時の軍需物資、これがなければ戦争ができないという資源を、フランスとドイツなどの共同管理の下に置く。そうすることによって二度と戦争が起こらないようにするという目標があったわけです。歴史教育の話に戻れば、先程少し触れましたが、1950年代にはドイツとフランスの教科書対話が集中的に行われています。



3)ドイツ・ポーランド対話の障害となってきたもの

ところが、そういう中でも東側との教科書会議はなかなか行われてきませんでした。これには、やはり当時の冷戦という状況が大きな意味を持っています。つまり、西ドイツは西側の一員として国家再建を目指していきます。その限りでは確かにナショナリズムの克服ということに努めてきたわけですが、それはあくまでもドイツの西側、西ヨーロッパの世界の中にうまく溶け込むことによってドイツのナショナリズムを押さえようという考え方であって、鉄のカーテンの東側との相互理解というのは、なかなか目標として設定されませんでした。

以上はあくまでも一般論であって、さらにポーランドとの間にはとくに厄介な問題がありました。それがいわゆる東部領土の問題ということになります。2001年の時点の感覚でいくと、西部ドイツやあるいは東部ドイツと言ったときに、西部ドイツといえばかつての西ドイツ、東部ドイツといえばかつての東ドイツを連想します。けれども、戦後間もない頃は、西部ドイツは問題ないのですが、東部ドイツと言ったときにイメージするのは、実は東ドイツではなかったわけです。東ドイツは中部ドイツで、東ドイツのさらに東側にある地域が東部ドイツとしてイメージされていました。この辺については、資料の中に地図を挟んでおきました。これは1970年に西ドイツで発行された地図帳から取ったものです。教科書対話が開かれるのが1972年ですから、その直前ということになります。ドイツの範疇として示されているのが、かつての西ドイツ、それから東ドイツ、さらにその東のポーランドの中にちょっと色が変わっている所、要するにポーランドの西側と、昔東プロイセンといわれたポーランドの北東部です。実際にはポーランド領土内のドイツ領土については、多少色が薄くなっているのですけれども。ちなみにどういう説明がなされているかというと、旧西ドイツについてはドイツ連邦共和国、すなわち当時の西ドイツの名前があります。旧東ドイツ地域については、上のところに「Sowiet(ソビエト)」のアルファベットが見えます。それからベルリンの下のところに「Besatzung(占領)」とあって、さらにライプツィヒの下のところに「Zone」と書いています。要するに「ソビエト占領地区」と書かれているわけです。東ドイツと認めていないのです。それからさらに東側、現在のポーランドの地域に、「z.Z.」というのが見えますが、これは「現在」とか「目下」という意味です。その下にポーランドという意味の「poln.」、その下に統治という意味の「Verw.」とあります。ですから「目下ポーランドの統治下にある」と書かれているわけです。そして全体には大きく「DEUTSCHLAND(ドイチュラント)」と左下から右上のかけてアルファベットが並んでいることから分かるように、これらの地域全部がドイツ領だという国境意識をこの地図帳は示していたということになります。 ここで問題になるのは当然、現在ポーランド領になっている旧東部領土ということです。ここは実質的に当時ポーランド領だったわけですが、この実質的にというのが厄介であって、この地域が正式にポーランド領土であると確定されたのは、実は東西ドイツが統一した1990年のことです。つまり、条約レベルでみると、この1970年はもちろん、教科書対話が行われてきた1972年以降もここは未確定の地域ということでした。とくに戦後初期の時点では、西ドイツの保守政府は東ドイツとの再統一を目標としていただけではなくて、東部領土と呼ばれたポーランド統治下にある地域の返還も要求していました。この地域は、確かに戦前はドイツの領土で、戦後あいまいな形でポーランド統治下に置かれていたわけです。ただドイツ側から見ればそうですが、ポーランド側の理解としては、実はポーランド国境の東側をソ連に戦後割譲したという事実があって、ポーランドが東側をソ連に取られた以上、西側をドイツから取り戻すのは当たり前じゃないかという感覚が、ポーランドの人々にはありました。しかし西ドイツ側から見れば、それはポーランドとソ連の間の問題であって、ドイツが割りを食うのはおかしいということになります。

さらに大きな問題は、戦前にこの地域に住んでいたドイツの人々が終戦時にポーランド当局によって財産を没収され、ドイツへ追い立てられたという歴史的経緯にあります。他の東欧諸国でもあったのですが、とくにポーランドからはたくさんの難民が発生しましたし、その過程で多くの人々が死にました。こうした過程から、西ドイツに生きて帰った人々は、やはりポーランド政府に対して非常に強い被害者意識を持ちます。ポーランドに残してきた財産、とくに家・土地、そういったものの返還を要求します。さらにその難民はドイツ国内で組合や政党を作って、当時の西ドイツの保守政権の中にも代表を送り込むことになります。そうすると、そういう代表の声を受けた西ドイツ政府は、ポーランドに対してその土地を返せ、と領土返還要求をすることになります。その結果、西ドイツというのは、またいつ攻めてくるのかわからない危険な存在だという意識がポーランド国内で高まっていく、こういう悪循環があったわけです。ですから、ただ単に冷戦−鉄のカーテン−があったというのではなく、この両国の間にはとても厄介な、しかも非常に大きな面積の領土問題があって、そのために両国関係は長いあいだ好転しなかったわけです。

こういう状況の転機になったのが、1969年の西ドイツの政権交代です。そのとき、社会民主党を率いていたブラントが首相になりました。この頃は世界的規模で見ても、東西の冷戦が緩和していた時期にあたります。その中で、社民党のブラント政権は外交政策を180度転換しました。

現実の国境線は非常にあいまいに引かれたものではあるが、その東部は実際上ポーランド領になっていて、しかも1945年から1970年ですから25年もこの状態は続いている。実質上、国境は決まってしまった。そうである以上、領土を取り戻せといっても意味がない。そうではなく、事実上、国境を承認することによってポーランドとの関係を改善しよう。こう考えられたわけです。これが先程お話した東方外交というものであって、それがあったからこそ、この教科書対話が可能になりました。



4)教科書対話のみちのり

さて、次にこの教科書対話が進められてきたみちのりに移りたいと思います。先ほど教科書対話が現在も続いていると言いましたが、その活動は大きく三つの時期に分けることができます。対話が公式に開始されたのは1972年です。先ほどお話した東方外交の成果が出たのが1970年代です。1970年に条約が締結されるのですが、それがドイツ国会でなかなか批准されません。批准されないと条約は発効しませんから、発効と時を同じくして、つまり条約が批准されるということがほぼ確定した段階で、この教科書対話は実現しました。実際の批准は1972年5月ですが、その3ヶ月前の1972年2月に教科書対話は始められました。

そして、1972年から76年までの間が第一期と考えることができます。76年というのは、共同教科書勧告というものがまとめられた年にあたります。これがいわゆる有名な共同教科書勧告なのですが、その間に両国の歴史教科書に対して問題点を指摘し、そして改善する方向性を示唆したと考えることができます。厳密に言うと、この時に開かれた対話というのは、ドイツとポーランド両国のユネスコ委員会が組織したもので、その中には歴史家だけではなくて、地理学者による対話というものもありましたが、今日は、とりあえず歴史家の方だけに注目することにします。

それから第二期にあたるのが1977年から87年の時期です。この時期には、教科書の具体的な分析というよりも、むしろ両国の歴史家が専門的に歴史学的な議論を行ないました。つまり、第一期においては、個々の歴史解釈の妥当性や,それが持っている社会的側面や教育的側面といったところに成果が集中して、その上で、ではこういうふうに記述を変えたらどうか、という具体的な論議が行われたのに対して、第二期においては、むしろそういった議論の前提になるような、歴史的事実とその解釈をめぐる学問的な議論が、両国の専門家により行われました。また第二期の最後には、それまでの共同教科書委員会の活動が、一体どの程度にドイツの歴史教育に影響を与えることができたのか、その効果について検討するという作業を行ないました。

この検討に基づいて、1988年以降の第三期の取り組みが行われていきます。この第三期の活動は一言でいうと、両国の歴史家が協力して歴史教材を自分たちで作るということです。これは正確に言うと歴史教材ではなくて、教師用ハンドブックです。要するに、そういう本があれば一人一人の先生がドイツ・ポーランドの関係史について実際に授業を行なえるというような、教師を助けるためのガイドブックなわけですが、先生がその授業の前にそのガイドブックの一部をコピーして配れば、それで授業ができるようにするといった意味では教材という側面も持っています。

このように、すでにある教科書に改善を求めていくのではなくて、共同教科書委員会の枠組みで実際に自分たちで教材を作ってしまおうじゃないかというわけです。これはある意味で言うと、教科書を改善していくというやり方には限界がある。このように彼らが考えたことを示しています。

この点について説明するためには、1976年の共同教科書勧告の内容について概観する必要があります。この勧告は、第1項目の非常に古い時代、すなわち「古代と中世初期におけるスラブ人とゲルマン人」というところから、第26項目の「正常化の道」まで、つまり古代から現代さらには教科書会議が行われていたまさに現在の時点までという、非常に長い時間的範囲を扱っています。ただ、全体としてみると大体第6,7項目までがいわゆる中世史、それからは14項目までぐらいが近代史、そして、それ以降の残り半分を現代史が占めています。そういう意味で現代史が圧倒的な意味をもっていることも確かで、さらに23項目以降が戦後史に割り当てられていて、その意味でも非常に現代史を重視したテーマ設定になっているということがわかります。

また、疑問に思われる方がいるかもしれませんが、いわゆる第2次大戦を扱った勧告というのは意外に少なくて、勧告19と20あるいは21、この辺まで含めてもせいぜい3つしかありません。これはなぜかと言うと、ドイツとポーランドの間の対話が実際に進められていく前に、すでに西ドイツの歴史教科書はナチスの加害に対して自己批判的な記述を行なっていたからだと考えられます。まさに対話が開始された60年代末から70年代の初頭というのは、ドイツで政権交代があって、政治体制が変わったというだけではなく、そのドイツの社会が大きく変わった時期に当たります。つまり、それまで表に出ることがなかったナチズムに対する批判が、初めて社会的な影響力を持った時代ということになります。ちなみに今の外務大臣であるヨシュカ・フィッシャーは、緑の党の政治家ですが、彼らを評してドイツでは「68年世代」という言い方をします。彼らのお父さんたちの戦争中の行為に対して、「お父さん、戦争中は何していたの?」と、68年に20歳を過ぎたぐらいの人たちが問い始めたのです。そういう中で、ポーランドとの対話を行なうまでもなく、西ドイツの教科書もナチズムの犯罪についてはかなり批判的な記述を行なっていました。ですから、あえて言えば自分たちの教科書に対する自信を持って、ドイツの歴史家はポーランドに乗りこんでいったわけです。

もちろんポーランドにしてみれば、それでも西ドイツの教科書には不満が多かったわけです。つまりポーランドの側から見ると、ドイツの人たちが行なっている自己批判というのは、まさに自己批判に過ぎない、ポーランドのことを考えていないある意味で自分勝手な自己批判であるというふうに映ってしまいます。これは非常に大きな問題だったのですが、ただそうは言うものの、やはり第2次大戦については、ドイツの歴史教科書に一定の基礎のようなものがあり、さらにポーランドの歴史家から新たな指摘を受ければ、それを受け入れるだけの準備があったと言うことができます。その結果として、たとえば勧告の19とか20とかいった勧告は1度公表されると、比較的スムーズに西ドイツの歴史教科書の中に取り入れられていきました。第2次大戦というのは、誰の目から見ても重大なのです。それに対して、問題なのは、勧告でいうと10とか11、12が扱っている歴史的経緯です。これらの勧告の内容を簡単に説明すると、ポーランド分割によってポーランドはプロイセンに組み込まれ消滅していったわけですが、その中でポーランドの人々が民族の独立運動を展開したり、あるいはドイツのルール地方の工業地帯にやって来て、その地域の発展に貢献したり、といろいろなことがありますが、そういうプロイセン国内でのポーランド人の行動を扱った勧告なのです。そういう事実をドイツの教科書はもっと大きく扱うべきだ、と訴えられたわけですけれども、ところがこの三つの勧告について言えば、ドイツの歴史教科書にはあまり影響を及ぼすことができていないということが、後の調査から明らかになりました。

つまり第1次、第2次大戦というような誰もが見ても重大な項目というのは影響を持ちやすいのです。それについて反発もある代わりに影響を持ちやすい。それに対して、近代プロイセンにおけるポーランド侵攻といったテーマというのは、ドイツ人がそもそも関心を持っていない。そのために、こういった歴史的事実については、ドイツの各州の中にある学習指導要領の中に取り上げられていない。そうである以上、教科書はそれらを書いていない。教科書にそういうものが書いていない以上、いくら教科書勧告を出しても教科書はそれに反応してくれない、という悪循環があるわけです。だからこそ、この第三期の最新の活動では、だったら、いっそのこと自分たちで教材を作ってしまおうということになったのです。

ただ、これは「言うは易く、行なうは難し」なのであって、予定されていた20冊のシリーズのうち、このプロジェクトが始まってから10年以上経った今の時点でも、まだ4〜5冊しか完成していません。

こういう教師用ハンドブックの難しさというのは、一体どういう史実が教える価値があるのか、取り上げる価値があるのか、この点について両国の歴史家が意見を一致させなければならない、というところにあります。たとえば、ポーランド史を当然のように勉強してくるポーランド人の子どもにとっては意味のある歴史的事実であっても、ドイツ人にとって、それにどういう意味があるのか?と、こういう問題になってくるわけです。つまり、ドイツそしてポーランドの歴史学そのものが、自らの世界観について考え直さねばなりません。そこに、教師用ハンドブックというプロジェクトの大変さがあります。



5)ドイツ・ポーランド対話のインパクト

これまでお話したことは、両国の歴史家による教科書対話がなにを行なってきたのかということですが、次にこうした活動はどういう効果をもったのかという点について簡単にお話したいと思います。

今お話したように、26項目の中で実際にドイツの歴史教科書に影響を与えることに成功したもの、成功していないものの両方があることは確かです。また、ドイツは現在16の州があり、その州ごとに教科書検定が行われています。16の州それぞれが独自の検定基準を持って、それぞれに検定を行なっている結果、非常にたくさんの種類の歴史教科書があります。日本にも実は意外にたくさんあるのですが、ドイツは日本の比ではありません。全部を読んだ人は誰もいないというぐらい大量の教科書があります。それらの中には当然、勧告の精神を積極的に反映したものもあれば、あまり反映していないものも出てきます。

それから、学校教育のシステムが日本とドイツでは違うので一概にはいえませんが、いわゆる中等教育段階−日本では中学校、高校にあたる段階−に注目しても、その多様性は明らかです。ドイツの中等教育と言いますと,ギムナジウムという進学校が有名かと思います。昔はギムナジウムと言えば、ものすごい超エリート校というイメージでしたが、今ではそういうことはありません。日本の普通高校ぐらいに考えていただいて結構です。そのギムナジウムの教科書では、ポーランドに関する記述もかなり充実しているのですが、日本でいう職業学校にあたるような学校では、いわゆる普通教科の他に職業系の科目というのがあり、そちらにたくさんの時間数をとられてしまうので、歴史にあてられる時間がどうしても減ってしまいます。その結果、歴史教科書も薄くなって、教科書が薄くなるとどうしてもポーランドに関する記述というのは減ってしまうという現実があります。つまり、ポーランド史というのはページ数に余裕があれば勉強した方が良いけれども、もしページ数や時間数に余裕がなければ削ってもいい。そういう位置づけにされてしまっているという現実もあります。

このように、教科書の中にどのように反映されていったのかを測定するのは非常に難しいわけです。一方では非常によく反映されているものがあれば、一方ではあまり反映されていない教科書もあります。ただ、教科書対話が日本で初めて一般に知られるようになった1982年−まさに教科書問題が起こった時ですが−、この時に「ドイツ・ポーランド対話は失敗に終わった」という評価を日本の一部の人たちは言いました。その評価は明らかに間違いである、とこれは自信を持って言うことができます。間違ったことを当時言った人々、そういった主張を載せた雑誌というのは、現在「つくる会」をサポートしている人たちです。言ってみれば「誤報」なのですが、こういう誤報をしたのは、それなりの理由があります。

それはどういうことかと言うと、ドイツ・ポーランドの両国間の対話が始まって勧告が発表されると、確かに西ドイツ国内の保守派の人たち、つまり戦後初めて野党になった人々、あるいは難民の団体が、一斉に教科書対話を批判したわけです。彼らの言い分によると、ドイツ・ポーランド対話というのは、社民党が当時行なっていた東方政策を支えるための一種の教科書外交である、そして教科書を外交の犠牲にするな、ということを言い出しました。こうしたドイツの保守派の言い分には、確かに間違いともいえないところもあります。たとえば、真の相互理解のためにはポーランドに譲ってばかりではいけない、と彼らは主張しましたが、ここで注意しなければならないのは、教科書対話に反対した保守派の側は、自分たちと自由な論議ができる対話、つまりイギリスやフランスとの対話、ベネルクス諸国との対話には反対してこなかったということです。先ほどお話したように、彼らはむしろフランスとの教科書対話を積極的に後押ししていたという事実があります。ですから彼らが教科書対話そのものに反対なのではありません。「共産主義者との対話は不可能だ」、「そんなことはやってはならない」と当時の保守派の人たちは言ったわけです。

こうした批判が出てくるのは、ポーランドとの対話を進めたドイツの歴史家は、当時のポーランド側参加者の政治的立場に配慮したことを認め、その政治的配慮なしには対話は不可能だっただろう、と率直に述べているからです。西ドイツの保守派の人々は、この点を捉えてポーランドとの対話を厳しく批判していたのですが、でも現在の時点から見ると、こういう議論の時期があったからこそ、1976年の勧告が、ドイツの人々、しかも専門家の人々だけではなくて普通の人々、一般の市民にもかなりの程度に知られることになった、と言えると思います。宣伝効果があったということです。とくに社民党が政権に参加している州について言えば、たとえば極端な州では、1976年の勧告が教科書検定における資料の一部として使われてもいます。

さらに、1982年に中央政府でもう一回政権交代があり、革新政党から保守政党へと政権が移ったわけですが、その結果、革新政党が進める東方外交をそれまで批判してきた保守の側が、政権についた瞬間に、このポーランドとの教科書対話を高く評価するようになります。これは、その保守派が前政権の行なってきたことの責任を引き継いだと言うこともできるでしょうし、反対に言えば、保守政権ができなかったことを社民党政権が行なったというふうに見ることができると思います。ちなみにその時に首相になったのが前の首相のコールです。彼自身に関して言えば歴史認識についてはいろいろと物議をかもす、いわば不規則発言が多い人だったのですが、そんな彼でもドイツ・ポーランド対話については、これが両国の相互理解の発展に大いに貢献したと高く評価する演説を行なっています。

そういう意味で今日において、いわゆる一部の右翼急進主義者たちを除けば、このポーランドとの対話に対する根本的な反対勢力というのは存在しないと言うことができます。



6)東アジアへの示唆

このドイツとポーランドの対話から、東アジアに暮らす私たちはいったいどういうことを学びとったらいいのかということについて、私の考えをお話して終わりにしたいと思います。

まず、明らかなのは東アジアの中で日本に暮らしている私たちは、間違いなくこういう対話を必要としているということです。ここで大切なのは、単にそれが必要だというのではなくて、必要としているのはまさに日本人である私たちであるということです。もちろん、今日おいでのみなさんの中には日本国籍でない方もいらっしゃいますが、とりあえずそのようにお話をさせて頂きます。

ドイツとポーランドの対話の中でイニシアチブをとったのはドイツ側であって、ポーランド側ではありません。つまりポーランドから批判をされたから対話が始まったということではなくて、そういう批判を受ける前に、ドイツ側がポーランド側に働きかけたわけです。加害責任を負っている側が被害を受けた側に対してイニシアチブをとるというのは、とても重要なことであると思います。

この点で取り上げなくてはならないのが、先日鳩山民主党代表が韓国を訪問して金大統領に面会したときのことです。鳩山代表は金大統領に教科書対話を始めようと提案をした。この時に金大統領は積極的な返事をしなかった、ということが報道されました。私は非常に残念だと思いますが、しかし正直なところ、これは理解できることであると思います。つまり今回「つくる会」主導の教科書というものが出てきて、それに対する検定が行なわれました。もちろんそれ以外の教科書に対する検定も行なわれたわけで、そういう検定を通過した教科書に対して、韓国政府は具体的な修正要求を発表しています。実は、この時点で、もう教科書対話を行なう必要はなくなってしまったのかもしれません。考えようによっては、あまり友好的な形とは言いがたいですけれども、実質的な形で対話は始まってしまった、と言うことができます。決して前向きな意味で言っているのではありません。非常に皮肉の意味で言っているのですけれども、このことが意味しているのは、要するにあの一冊の教科書とそれに対する検定によって、本当の意味での対話の可能性が、当分の間小さくなってしまったということだと思います。もちろん日韓両国政府のどちらか、あるいは両方にその大きな態度の変化があれば別ですけども、いずれにしてもこういった事態が起こる前に教科書対話は始められなければならなかったはずで、事件が起きてからでは遅い。このことは一応おさえておく必要があります。

それから、この件に関連して第二点として重要になるのが、対話というのは、あくまでも自分たちの教科書を改善するために行なうのだということです。今はオフィシャルな、言ってみれば政府レベルでの対話をするには決して良い環境ではないわけですが、実際には政府に頼らない民間レベルでの個人による対話というのは今までもありましたし、これからもますます活性化していくだろうと思います。この際に、今お話している二番目のポイントが重要な意味を持ってくるわけなのですが、教科書対話というのは、自分たちがいくら批判的に考えても気が付かない問題を、パートナーの目を通して指摘してもらう、そのために行なうものだということです。

たとえば、社会主義政権下のポーランドの歴史家との間で対話をドイツ人が進めていった、この対話が成功した原因というのは、ドイツの歴史家が相手側の歴史理解を批判するのではなくて、自分たちに向けられた相手の批判を受け止めるという姿勢に徹した、ということがあります。

多分、鳩山代表はこの点で間違いを犯したのではないかと思います。すでに韓国政府は日本政府に対して修正要求をまとめていた。そういう事実がある中で、いま教科書対話を開こうというのは、むしろ韓国の歴史教科書に対しても言いたいことがありますよ、と言っているようにどうしても聞こえてしまう。それに対して、金大統領は「NO」と答えたということになります。今日本の政治家や教育関係者がなすべきことというのは、韓国の歴史家が出してきた修正要求に対してできるだけ速やかに誠実な対応をすること、それ以外ではないはずであって、今後時間を置いてタイミングを見た上で改めて教科書対話を始める。日本の歴史教科書をもっと良くするためには韓国の方々の協力が必要ですと、そういうふうに議論していくのが合理的な筋道だと考えます。

こういう考え方には実は問題があります。間違いなくとは言えませんが、おそらく韓国の教科書にも日本人の目から見て、あるいは第三者の目から見てもいろいろな問題点はあると思うわけです。それにもかかわらず先ほどのような考え方をしていくと、対話の中で韓国の人々は、その韓国の人々が持っている問題を知る機会を与えられないという可能性が出てきてしまう、ここが問題なのです。ドイツとポーランドの対話においても、実はポーランド側は、問題はドイツの教科書の中にあるのだと思っていて、自分たちの教科書については多くを語りませんでした。その結果、ポーランド側にメリットはなかったのです。似たようなことが、韓国との間に発生する危険性があります。

誤解をしないで頂きたいのは、右派の人たちが言うように、今お話したような姿勢が「あまりにも卑屈である」というのではない、ということです。そういうことでは決してありません。反対に、むしろ自分たちの教科書を直して下さいという形で議論していって得をするのは誰かといえば、それは間違いなく日本の側だということが問題なのです。

ただポーランドでは、社会主義政権が崩壊すると、ようやく少しずつ自分たちがドイツ人に対して行なった加害行為に目を向けるようになります。終戦期にあいまいな形でポーランド領になった地域から多くのドイツ人が追放されましたが、追放されてドイツに辿り着いた人はまだいい方で、かなりの人たちが途中で亡くなっています。また、ナチスが作った強制収容所から解放されたポーランドの人たちが、今度はドイツ人をその強制収容所の中に収容し、そこでは当然いろいろな仕返しがあって、殺人にいたるケースもありました。こういう、ポーランドの人たちがそれまで目を背けてきた歴史について、ポーランド人自身がようやく90年代後半ぐらいから目を向けるようになってきたという事実もあります。

これは、韓国の人びとが日本人に対して報復を行った、というのではありません。そうではなくて、言いたいのは、結局のところ、歴史認識を改めることができるのは、改めようという意志を持った個人だけだということです。それは、あくまでも本人の課題であって、パートナーが相手に押しつけても失敗に終わらざるを得ないのです。つまり、日本の教科書を直せるのは日本人に他ならないのと同じように、韓国の教科書を直せるのは韓国の人々だけです。もちろん韓国の人々が求めるのであれば、私たちは最大限の努力や協力をしなければならないわけですけれども、私たちのほうから、韓国の教科書はここがおかしいから直してくださいと言っても、それはあまり意味がないだろうと思います。そうではなく、むしろその歴史教育あるいは歴史認識のようなメンタルなものについては、やはり自分たちの倫理性とか道徳性、そういうものによって相手側に影響を与えていくというのが一番現実的な考え方だろうと私は考えております。

原理的に考えると、こうした一方に日本人、もう一方に韓国朝鮮人という二分法的な考え方自体が、本当はあまりにもナショナリスティックだとも言えるわけですが、とりあえずこういう二分法を踏まえて和解を進め、その上でできるだけ近い未来にそういうナショナリズムを越えた意識を目指すというのが現実的ではないだろうかと私は思います。

そして、最後に何と言っても重要なのは、対話というのは継続する必要があるということです。もし、教科書対話というものについて、たとえば教科書問題といった現実にある問題に対する急な解決策、即効性のある万能薬であるかのように考えられているとしたら、これは大きな間違いです。ドイツ・ポーランド対話は72年に開始されて以来、現在に至るまで継続されています。実際には88年以降少しさぼり気味かなという気はしますけれども、でも先ほどお話したハンドブックの作業が現在も続いている。いつでもインテンシブに再開できる状態にあるわけです。また、ドイツとポーランド対話にはユネスコ委員会による活動のほかに、歴史教育を巡る様々な民間による活動、対話があるわけです。

一昨年、国際歴史教育学会が−今回はドイツ・ポーランド両国の歴史の教師と歴史教育学者、つまり歴史家というよりも教育者が中心になって集まった会議だったのですが−、1週間にわたって旧ドイツ領のポーランド西部で行なわれました。そこに私も参加して肌で感じたのは、教育現場ではまだまだ相互理解のための取り組みは進んでいないということです。少なくとも彼らはそういうふうに思っているようです。

私が考えるところでは、世界には国家とか民族とかそういう集団、カテゴリーが存在していて、その中で歴史認識というものが一定の政治的役割を持っている。そういった現実がある以上、教科書会議を開いたからといって、そう簡単に問題解決に至ることはないだろうと思います。むしろ教科書対話のような活動というのは、歴史教育というものが行われている限り常に必要とされているものである、と言うことができます。こうした活動をしないで歴史教育だけを行なうというのは、いわばブレーキのない自動車に乗っているようなものであって、非常に危険極まりない状況にあるというのが率直な意見です。それでは、教科書対話というのは一体どれほど良く効くブレーキなのかというと、これはまたあやしいところがあって、先ほどお話したように、ドイツの現状は決して理想的なものとして語れるような状況ではありません。でも仮に効きの甘いブレーキであっても、無いよりはあった方が良い。そういうふうに私は考えます。

今日お集まりいただいたみなさんの中から、国際教科書対話というものについて関心をもたれる方が少しでも出てきていただければ、そのきっかけになれば、私としてはいい場になったと言うことができます。ご静聴どうもありがとうございました。


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